暇に任せて、スマホへのテキストの表示の練習をしている。HTMLでスマホのサイズに合わせたものは下記のスクリーンショットである。その後、windows 10のマシンにJDKとAndroid Studioをインストールして、スマホでのプログラムの練習の準備をした。ここでJAVAでの表示を行いたい。イメージ的にはページの遷移を縦ではなく、横にスワイプすることを考えている。片手のとき上下では動かせないから。 完成予定は未定。自分のスマホでlocalで自由な時間に読み返すために、ただの暇つぶし。
以下はこのbloggerでのテキスト表示である。
身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂
十月二十五日 二十一回猛士(松陰が使用した号の一つ)
【第一章】
私の気持ちは昨年から何度も移り変わり、それは数えきれないほどである。とりわけ私が趙の貫高や、楚の屈平のようにありたいとしてきたのは皆の知る通りである。だから、入江杉蔵(九一)が送別の句に、「燕や趙の国には多くの人がいるが、貫高のような人物は一人しかいなかったし、荊や楚にも深く国を思う人は屈平だけだった」という送別の句を贈ってくれたのである。しかるに、五月十一日、江戸送りのことを聞いてから、「誠」という言葉について考えた。この時に入江杉蔵が「死」の文字を贈ってくれた。私はそのことについては考えず。一枚の木綿の布に「孟子にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」の句を縫い付けて江戸へ持参した。これを評諚所に留め置いたのは、私の志を表す為であった。昨年から(安政5年)、朝廷と幕府の間では意思が通じていないようだ。いやしくも私の真心が伝われば自ずと幕府の役人も分かってくれる、そう想いを決め、やらなければならないことを考えた。しかし、蚊のような小さな虫でも群れを成せば山を覆ってしまうとの例え通り、幕府の小役人たちに握りつぶされ、とうとう何もできないまま、今日に至ってしまった。私のの徳が薄いので至誠を通じることができなかったと受け取るべきであろう。今さら誰を咎め怨むことがあろうか。誰も怨むことはない。
【第二章】
七月九日、初めて評定所から呼び出しがあった。三奉行(寺社奉行・松平伯耆守宗秀、勘定奉行・池田播磨守頼方、町奉行石・谷因幡守穆清)の取調べがあり、次の二点について私を尋問した。一つは梅田雲浜(うめだうんぴん)が萩へ来たとき何か密談をしたのではないか、ということ。二つ目は「御所内に落とし文があったが、筆跡が似ているのでお前が書いたのではないか。覚えがあるのではないか」と尋ねられた。訊問は、この二点だけであった。梅田は奸計に長けていると感じるところがあり、私は「梅田は胸襟を開いて語り明かすほどの者ではない。そういう意味で彼と密議などするはずがない。私は公明正大であることを好む。どうして落文などという隠れごとをしようか」とはっきり答えた。その後、私は六年間幽囚の身で苦心して確信した所説を披歴し、ついに大原重徳を萩に迎え、長州藩を中心として志ある藩で挙兵しようという計画したこと、さらに老中・間部詮勝の要撃計画を話したので、獄に入れられる身となった。
【第三章】
私は激しい性格で人から罵られると我慢が出来ない。そのため、今回は時の流れに従って人々の感情に適応するように心がけてきた。だから、幕吏に対しても、幕府が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したのはやむをえないことであると述べた上で、その後の措置こそが肝要であると論じた。そこで私が説こうとするのはすでに「対策一道」に書いたとおりである。こうした私の姿勢には幕吏もさすがに怒ることはなかった。私の説に対し幕吏は「言っていることが全て的を得ているとは思えず、身分の低い者でありながら国家の大事を論ずることは不届きである」と弁じた。私はそれに抗わず論争を避け、ただ「このことが罪になるというのなら、それを避けようとは思わない」とだけ述べた。幕府の法では、庶民が国を憂うことを許していない。その善し悪しについては、私もこれまで議論をしたことはなかった。
聞くところによると、薩摩藩の日下部伊三次は、取り調べの際に、幕府の失政を次々にあげ、「このようなことを続けていれば、幕府はこの先、三年や五年も保つことができないだろう」と述べて幕吏を激怒させた。さらに「これで死罪になろうとも悔いはない」と云い放ったという。この気概は私も及ばないところである。私は、入江杉蔵が私に死を覚悟するよう求めたのも、こういう意味なのかもしれない。思えば、唐の人、段秀実は郭曦には誠意を尽くし、朱泚には激しく非難しために殺された。こうして見ると、英雄と云われるべき人物は時と所により、それにふさわしい態度で臨んだ。大事なことは自分を省みて良心に恥じることがないことである。そして、相手をよく知り、良い機会をとらえることが大切なのである。私の人としての価値は、死後に棺を蓋で覆って始めて評価されるべきものである。
【第四章】
このたびの調書は、はなはだ粗略なものである。七月九日に一通リ申し立てた後、九月五日、十月五日の両度の呼出の時も大した取り調べもないままに十月十六日に至り、供述書を読み聞かせあり、直ちに署名せよとの事であった。私が苦心をして述べたアメリカ使節との外交交渉や海外渡航の雄大な計画に関する考えは一つも書かれず、ただ数か所のみ開港の事に触れ、国力充実の後、打払うべきなどと、私の心の真意ではない愚にもつかないようなことを書き付けて供述書としていた。私は、言っても無駄であることを悟り、敢えて抗弁しなかったが、不満が甚だしく残った。安政元年の下田踏海での取調書と比べると雲泥の差だというほかない。
【第五章】
七月九日、大原重徳公を長州に迎える策、老中間部詮勝要撃策の事を一通り申し述べた。これらのことは幕府も既に事前情報で承知していると思われたので、誤解なきように明白に述べておいた方が却って良かろうと思い申し立てしたが、幕府は全く知らなかったようであった。幕府の知らないことまで述べて、多くの仲間内に累が及び無関係の人を傷つけることになり、毛を吹いて傷を求めるという喩えのように、強いて他人の欠点を探し求めれば、かえってこちらの欠点をさらすことになるに等しいと思い直した。だから、間部要撃の件についても「待ち伏せて襲撃する要撃」から「待ち伏せて諌める要諌」と言い替えた。又、京都で連判した同志の姓名なども、隠して明らかにしなかった。これは、後の運動の為を思ってしたささやかな私の老婆心からである。これにより、幕府が、私一人を罰して他に累を及ぼさなかったのは大変喜ぶべきことであろう。同志諸君、この辺りの事を深く考え起ち上がって欲しい。
【第六章】
間部「要諌」の件で、もし諌めることが出来なかった時は刺し違えて死に、警護の者がこれを邪魔する時は切り払うつもりだったとは、実際には私が云っていないことである。ところが三奉行が強いてそのように書き記し、私を罪に陥れようとした。そのような偽りの罪をどうして受け入れられようか。そこで私は十六日、供述書の署名の席に臨んで、石谷、池田の両奉行と大いに言い争った。私は、死を恐れたのではない。両奉行の権力によるごまかしに屈服しない為である。これより先の九月五日、十月五日の両度の取り調べの際に、吟味役に詳細に話したことは、命を掛け間部を諌めようとしたことであり、必ずしも刺し違えや切り払いの策を講じていたのではないということだった。吟味役もこのことを十分に認めていたのに、供述書には「要撃」と書き記されているのはごまかし以外の何物でもない。だが、事ここに至っては刺し違え、切り払いのことを私があくまで否定したのでは却って我々の信念の激烈を欠くことになり、同志の諸友も惜しいと思うであろう。私も惜しいと思わない訳ではない。しかし、繰り返し考えると、志士たる者が仁のために死ぬにあたり、「刺し違える」とか「切り払う」などの言葉の問題ではない。今日私は、権力の奸計によって殺されるのである。全ては天地神明の照鑑(しょうかん)上にある。何を惜しむことはないであろう。
【第七章】
私は、このたびのことで最初から生を得ようとは考えなかった。また、死を求めたこともない。ただ、自分の誠が通じるかを天に委ねてきた。七月九日、取り調べを行った役人の態度からほぼ死を覚悟した。私はそれを詩に書き留めた。「明の国の楊継盛という人は、政治の実権を握った厳嵩の横暴を訴えたことにより処刑されたが、忠誠を貫いて死んだことに満足したであろう。漢の名医・淳干意は、罰せられた時、命乞いをしてまで生きることを望まなかったであろう」。ところが、その後の九月五日、十月五日の二度の取調べが寛容なものだったために欺かれ、ひょっとしたら死罪を逃れることができるかと思い、これを喜んだ。これは、私が命を惜しんだのではない。昨年の大晦日(安政五年十二月三十日)、攘夷は一時猶予、いずれ公武合体により攘夷すべしとの勅状が幕府に下った。今春の三月五日、長州藩主・毛利敬親公は萩を出発した。敬親公を伏見で迎え公卿と会って頂き、そこで攘夷の働きかけをしようとした私の計画は、ここで完全に失敗した。そこで万策尽きたので死を求める気持ちが強くわき起こってきた。しかるに六月末、江戸に来て、外国人の様子を見聞きし、七月九日、獄に繋がれたてからも、天下の形勢を考察するうちに、日本の為に私が為さねばならないことをがあると悟り、ここで初めて生きたいという気持ちがふつふつと湧いてきたのである。私が死罪とならない限り、この心にわき立つ気概は決してなくなることはないだろう。しかし、十六日に行われた調書の読み聞かせで、裁きを担当する三奉行がどうあっても私を処刑にせんとしていることがはっきりし、生を願う気持ちはをなくなった。私がこういう気持になれたのも、平素の学問の力であろう。
【第八章】
今日、私が死を覚悟して平穏な心境でいられるのは、春夏秋冬の四季の循環について悟るところあるからである。つまり、農事では春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れる。未だかって、この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるのを私は聞いたことがない。
私は現在三十歳。いまだ事を成就させることなく死のうとしている。農事に例えれば未だ実らず収穫せぬままに似ているから、そういう意味では生を惜しむべきなのかもしれない。だが、私自身についていえば、私なりの花が咲き実りを迎えたときなのだと思う。そう考えると必ずしも悲しむことではない。なぜなら、人の寿命はそれぞれ違い定まりがない。農事は四季を巡って営まれるが、人の寿命はそのようなものではないのだ。
しかしながら、人にはそれぞれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには十歳の中に自ずからの四季がある。二十歳には二十歳の四季が、三十歳には三十歳の四季がある。五十歳には五十歳の、百歳には百歳の四季がある。十歳をもって短いというのは、夏蝉(せみ)のはかなき命を長寿の霊木の如く命を長らせようと願うのに等しい。百歳をもって長いというのも長寿の霊椿を蝉の如く短命にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。
私は三十歳、四季はすでに備わっており、私なりの花を咲かせ実をつけているはずである。それが単なる籾殻(もみがら)なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私がささやかながら尽くした志に思いを馳せ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それは即ち種子が絶えずに穀物が毎年実るのと同じで、何ら恥ずべきことではない。同志諸君よ、この辺りのことをよく考えて欲しい。
【第九章】
東口揚屋(松陰は西口にいた)にいる水戸の郷士・堀江克之助(ほりえよしのすけ)とはこれまで一度もあったことはなかったが、しかし、彼は真の知己であり有益な友である。彼が私に言った。「その昔、幕臣の矢部駿州は、政策の違いから桑名藩へお預けとなり、その日より絶食して仇敵を呪って死に絶えましたが、その後、彼の制作が正しかったことが証明され、ついには仇敵を失脚させることができました。今、あなたも自ら死を決意するからには、心に念じて内外の敵を打ち払うことです。そして、その心をこの世に書き残しておいて下さい」と、丁寧に忠告してくれた。私は、その言葉に心から感服した。又、水戸藩士であり、堀江と同じ獄にいる鮎沢伊太夫(あゆざわいだゆう)は私に告げて言った。「あなたの沙汰がどう出るかは分からないが、もし自分が遠島にされれば天下の事は全て天命に委ねるしかあるまい。但し、天下の益になることについては同志に託して、言い置くべきことを伝えておかねばならないと考えます」。この言葉は、私と意を同じくするものだった。私が心に念じることは、同志が私の志を継承し、必ずや尊皇攘夷に大きな功を立ててほしいということである。私が死んでも、堀江、鮎沢の両氏は遠島になろうが獄にいようが、私の同志たらんとする者は彼らと交わりを結んで欲しい。又、本所亀沢町に山口三輶(やまぐちさんゆう)という人がいる。彼は義に厚い人のようで、堀江、鮎沢の両氏を獄外から支援されている。私がこの人に及ばないと思ったのは、小林民部(こばやしみんぶ)のことを、堀江、鮎沢の両氏から伝え聞き、小林の為にも尽力していることだ。この人は思うに、非凡な人だと思われる。この三人へ連絡するには、この三人をよく知る山口三輶に頼んだらよい。
【第十章】
堀江克之助は神道を崇め、天皇を崇敬し、その御政道を明らかにし、異端や邪説を排除せんと望んでいる。彼は、朝廷から教書を発行して、天下に。配布するのが良いと考えている。私が思うに、教書の発行をするには一つの方法があると思う。それは身分のわけ隔てなく学ぶことが出来る大学を京都につくり、天朝の学風を天下に示すことだ。全国の優秀な才能、人材を京都に集め、天下古今の正論、定説を編集して書物をつくり、それを朝廷で教習したのち、これを世に広めていけば、人心はおのずから定まるだろう。そこで、私が平素より入江杉蔵と密議し、尊攘堂建設のことを堀江に相談し、この役を杉蔵に任すことに決めた。杉蔵がよく同志と相談し、内外の同志から協力を得ることが出来れば、私の志した計画も無駄にはならないであろう。去年、勅諚や綸旨を得ようとした企ては失敗したが、尊皇攘夷運動は決してやめるべきではないから、よい方法を考え、先人の志を継承せねばならない。そのためにも、京都に学校を作ることは素晴らしいことではあるまいか。
【第十一章】
小林民部が言うには、京都の学習院は日を決めて百姓町人に至るまで出席させて講釈を聴聞することが許されている。講義の日には、公卿方が出向き、講師として菅原家、清原家及び官位を持たない儒者も加わり行われるそうだ。これを基本にして考えれば、更によい方法が見つかることだろう。又、大阪の懐德堂には、霊元上皇の直筆の扁額(門や部屋に掛ける横に長い額)があるので、これを基としてもう一つの学校を起すのも良い考えだと言っている。小林民部は、公卿である鷹司家の諸大夫であるが、このたび遠島の罪科に処せらている。安政の大獄に連座した京都の同志の中でも罪が大変重い。この人は、有能にして芸事深い方であるが、文学にはあまり深くないようだ。ただ、物事を的確に処理する才能を持つ人らしい。伝馬町の西奥揚屋牢にて私と同居だったが、後に東口に移された。小林は、京都の吉田神社の鈴鹿石州や筑州とは特に親しいということだ。又、江戸の山口三輶も小林の為に大いに尽力しており、鈴鹿か山口を通じて遠島先の小林まで連絡を取ることを同志に勧めたい。京都で事をなす時は、必ずや力になってくれるであろう。
【第十二章】
讃岐の高松藩士・長谷川宗右衛門は、数年にわたり藩主を諌め、藩主と水戸藩との周旋につとめ苦心した人物である。今、彼は息子の速水と共に捕らえられ、彼は東の牢屋に、息子の速水は西の牢屋で私と一緒だが、この父子の罪を私は未だに知らない。私が初めて長谷川翁を見た時、そこには獄吏が立っていて言葉を交わせなかったが、彼は独り言のようにして次のように言った。「玉(ぎょく)となって砕(くだ)かれようとも、瓦(かわら)となって生きながらえてはならない」。私はその言葉に深く感動した。同志諸君、その時の私の気持ちを察して欲しい。
【第十三章】
今まで書き記したことは、無駄に書き留めたものではない。天下の事を成功させるためには、天下の有志の士と志を通じなければ達成し得ない。そこで、私がここに記した数人のことは、このたび新たに知り得た人物だから、これを同志に知らせておく。なお、勝野保三郎は既に出牢している。したがって、何かのことについて彼に詳細を問尋ねるがよい。勝野の父の豐作は今潜伏中だが、有志の士と聞いている。いずれ、頃合いをみて探し出すのが良かろう。今日の事、同志の諸士は、安政の大獄という戦いに敗れ傷ついた志士にそのいきさつを聞き、今後の参考にするがよい。一度失敗したからといって挫折するようでは、どうして勇士といえようか。このことを切に頼む。頼むぞ。
【第十四章】
越前の橋本左内は二十六歳にして処刑された。十月七日のことであった。左内は東奥の牢に五、六日ばかり居ただけで処刑されたのである。その時、勝野保太郎が橋本左内と同獄だった。後に勝野は、西奥の牢に来て私と同獄となったが、私は、勝野から左内の話を聞いてますます左内と会えなかったことを残念に思っている。左内は、自邸内に幽閉されていた時、「資治通鑑」を読み、注釈を書き、「漢紀」も読破したという。又、獄中では、「教学や技術の事についていろいろと論じた」と勝野は私に話してくれた。勝野は、私の為にこれを語ってくれたが、左内の獄中の論は、私を大いに納得させた。私は、ますます左内を甦らせて議論をしてみたいと思うが、左内はもうこの世にいない。ああ、とても残念なことだ。
【第十五章】
僧・月性の護国論及び吟稿、口羽徳祐の詩稿、いずれも天下同志の士に見せたいと思う。そこで私は、これを水戸藩の鮎沢伊太夫に贈ることを約束した。同志のうち誰か私に代わってこの約束を果たしてくれるとありがたい。
【第十六章】
同志諸友の内、小田村伊之助、中谷正亮、久保清太郎、久坂玄瑞、入江杉蔵と野村和作兄弟たちのことを、鮎沢、堀江、長谷川、小林、勝野たちヘよく話しておいた。松下村塾の事、須佐、阿月の同志の事、飯田正伯、尾寺新之丞、高杉晋作及び伊藤利輔(後の博文)の事もこれらの人に話しておいた。これは私が軽い気持ちで話したのではないということは分かってほしい。
【かきつけが終わった後に】
「心なることの種々かき置ぬ 思ひ残せることなかりけり」
「呼びだしの声まつ外に 今の世に待つべき事のなかりけるかな」
「討れたる吾をあわれと見ん人は 君を崇めて夷(えびす)払へよ」
「愚かなる吾をも友とめづ人は わがとも友とめでよ人々」
「七たびも生きかえりつつ夷をぞ攘はんこころ 吾忘れめや」
十月二十六日黄昏に書く 二十一回猛士
*** original文章は吉田松蔭.comよりコピー
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